故人ではなく遺族のために行われている葬儀

故人ではなく遺族のために行われている葬儀

前回に引き続き、今回も「日本に原始仏教が伝来していない7つの根拠」というシリーズブログの第四段になります。
今回は日本で行われている葬儀がと原始仏教の国で行われている葬儀を比較して、見ていきたいと思います。最後までお付き合い頂ければ幸いでございます。

「原始仏教」と「日本仏教」葬儀の違い

原始仏教と日本の仏教を比較すると、葬儀にも大きな違いがあります。
まずタイの葬儀では、故人に徳分を捧げるという目的で、遺族及び葬儀参列者が参列します。日本の葬儀とは違い1週間ほど行われます。遺族は故人に徳分を捧げるために一時的に出家する場合もあるそうです。
そしてタイでは見知らぬ人の葬儀に参加することが当たり前で、参列者の中には生前の故人と一度も会ったことがない人も多いようです。それだけ原始仏教の中では徳分を積むという概念が根強く継承されております。

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以前の記事でも書いた通り、死後の世界にお金は持っていけません。持っていけるのは、徳分とカルマのみ。そして徳分とカルマの量で次に行く世界が決定されるため、遺族は故人に多くの徳分を持っていってもらうために、一生懸命徳分を積んで、故人に持たせるわけです。

日本人は徳分を捧げるという概念がない

一方日本の葬儀では、参列者は徳分を捧げるという概念がないため、お坊さんにその役目を代行してもらいます。
以前のブログで「廻向」について解説した通り、お坊さんは廻向によって死者に徳分を持たせます。その対価として遺族はお坊さんに廻向料を支払う仕組みになっています。原始仏教とは違い、徳分を死者に与えられるのは、お坊さんだけということになります。
しかし日本での葬儀は近年変化があるようで、お坊さんを呼ばずに執り行われることもあるとのことです。更には故人に縁があった人々が集まり「お別れの会」と称した集まりがあるようですが、これは死者に対して何の廻向にも供養にもなりません。遺族や故人と親しい人々の自己満足だけの会になっています。
以前のブログでおばけについても書きましたが、寿命よりも先に肉体が崩壊した場合は、この世にまだおばけとして存在はしていますが、おばけに捧げるべきものは、供物と徳分です。それらが捧げられないのであれば、死者にとっては何の意味もありません。

故人のためにやっているはずが逆効果なことも

日本では棺桶の中に、生前故人が好きだったもの(酒、たばこ、釣り竿、etc…)を入れる風習がありますが、この行為は故人の欲望や執着を残し、更に言えば全て故人にカルマ(戒律に反するカルマ)を積ませる行為になりますので、やってはいけません。例えばお酒は「不飲酒」に抵触し釣りは「不殺生」に抵触します。故人に徳分という手土産を持たせるどころか、カルマという大罪を持たせる結果になります。そしてそれを行った人も同様にカルマになります。無知がカルマの引き金になっていることを理解しましょう。

死者のために尽くすなら

本当に故人のために何かしてあげるのであれば、自分が正しい知識を持つか、それができなければ、正しい知識を持ったお坊さん(専門家)にちゃんと相談することがベストです。
一般人は供養や廻向の正しい方法を知りませんし、お経やマントラを唱えることができません。近年少子高齢化の影響もあり、墓地霊園での参拝方法の簡略化(クラウド参拝等)、儀式を簡略化する流れがありますが、死者のための供養や廻向になっているのか?死者のためをおもうのであれば、簡略化せず昔ながらの正しい方法で執り行うが良いでしょう。
何度も言いますが、無知が一番のカルマ(業)になります。

次回も「日本に原始仏教が伝来していない7つの根拠」シリーズ第五段「人は死後また人間に生まれ変われると勝手に思っている」というお題でブログを書いていきます。

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